喜びの形は人それぞれで、それぞれのやり方で追求していけばいい
私は常に地味に焦っていた
普段からずっと意識しているわけじゃないが、ときどきその焦りが頭を持ち上げてくる
“ 誰かの役に立つ 私にしかできない仕事がやりたい ”
“ ひとが喜んでくれて自分も輝けるなにか ”
“ 初対面の人にも「私はこういう者です」って言えるなにか”
が欲しい
40代になって、自分のためじゃなくて誰かのために役に立ちたい という自然な流れでの想いなのかもしれない
ただ、私は結構なポンコツ人間だ
一応大学を出て、希望だった旅行会社に就職し、その後制作会社で旅行雑誌の編集の仕事をして、一見なんだかちゃんとしているようにみえるが、実はなかなかのポンコツだ
朝寝坊して添乗の仕事に遅れそうになり、ノーメイクのまま吐きそうなくらい朝から走ったり、仕事の面接でこんなに笑ったのははじめてと言われたり、会議で寝てしまったり、会社のお偉方との面談で泣いてしまったり、
といっても、仕事は気合いを入れてポンコツをカバーしようと一所懸命がんばっていたのでなんとかなっていたが、
プライベートなんてポンコツエピソードがありすぎるくらいにある
やっていることがちょいちょい人とずれていて、笑われることもしばしばで、自分のことをやるのにいっぱいいっぱいの私が、結婚して、こどもを3人産んだ
3人の子育ては当たり前に大変で、
我の強い子どもたちに振り回されっぱなしの私は、自分というものを見失いそうになりながら、もがいていた
元々やりたいことをなんでもやりたい知りたい私は、興味あることにいろいろ手を出し、その都度ハマることもあるのだけど、そのうちに情熱が冷めてしまう
そんなことを繰り返すと、私にはなにかもっと違う向いたものがあるんじゃないか、天命はなんだろうか、とますます悩んでしまう
自分が楽しむ向こう側に、これが誰かの役に立つ仕事にならないか、を考えてしまうと、余計にやりたいことがわからなくなる
“インプットしたらアウトプット
インプットばかりしていたら入るスペースがなくなる ” とか
“自分のためでなく人のためになること、人に喜んでもらうことが一番の喜び ” とか
“旦那さんのお給料でやっていくなんて自力していない、女性も自分で稼がないといけない時代 ” とか
話を聞いてもっともだと思うと、私の中でこうあるべき、という思い込みができてしまい、
“ そうでない自分は、そうである人よりも劣っているんじゃないか”
“ そういう人にならないと ”
という、ちょっとした強迫観念のようなものが生まれてしまっていた
でも実は、地球規模で、なんなら宇宙規模でみれば、そんな決まり事は一切なく、 人それぞれにそれぞれの幸せな生き方があり、
こうあるべき、という型はなにもないのだ
みんな一緒の考え方で、同じゴールに向かっていてもおもしろくないじゃないか
ポンコツを認めざるを得ないデコボコの私が、自分の喜びを追求しながら、家事も自営の仕事も、人に喜んでもらう仕事もやろうと考えるのは、かなり無謀なことなんじゃないか
ありがたいことに、旦那さんは仕事が大好きで、ほんとに一所懸命仕事をしてくれていて、私が事務経理をしていれば、自分がやりたいことを無理せずできる生活をさせてもらっている
このことは、自立した女性になりたいと考える私にとっての足枷みたいで、実は受け入れられなかったことなのだけど、
せっかく今あるこの状況をありがたく受け入れて、自分の夢を叶えていけばいいんだと思えるようになった
私の望みは、
せっかく地球に生まれてきたのだから、やりたいことを全部やって、人生おもしろ楽しく生きていきたい!
だけど、周りの人たちが幸せにイキイキ生きていないと意味がない
私がおもしろ楽しく生きることの先に
人の喜びと幸せ があればもう最高だ!!
瀬戸内海に浮かぶサバニ